2019.07.02セラピストblog
きれいな字を書くことが書道ではない!師匠の教えと姿に心を解放!整体師&チベット体操講師としてできる事
小学生の授業に書道があったので、一度はやったことがあると思います。私が小学生の頃は、学習塾よりも「書道教室」の方が流行っていました。字がきれいに書けるようになるためだったと思います。私も近くの書道教室に通って、手や服を墨で汚して怒られた記憶も・・・
上達すると、何級、何段というように上がっていきますが、私はそれには固執しなかったので、数年でやめてしまいました。
社会人になってから、突然、「書道は好きだったな。また習いたいな。先生になりたい」と思って、改めて書を習いに行きました。
昔取った杵柄で書けるものかと思っていましたが、とんでもない!子供の頃の書道とは全く違うもの「書作」でした。
子供の頃の教室は、筆をつかって字を書くことを学びましたが、この教室は、書体、筆、墨、硯、紙などを選んで作品としての書を書くところでした。
最初は色んなことを知ることが楽しかったのですが、作品としての書を書けば書くほど、自分のセンスのなさに辟易としてきました。
結局、卒業はしましたが、自分がいいと思った作品は作れず、「好きだ、先生になりたい」と思っていた書道はやめてしまいました。
作品として描いた書は、見れば見るほど辟易とするのでしまいました。そして、書作展に行っても「素晴らしい!書いてみたい!」という気持ちは起きませんでした。
でも、ずっと心から離れない感覚があります。それは、筆で書く感触、墨の香り、墨をする感触です。
この感覚を思い出すと、心地よさが広がり、リラックスします。筆で書くことが好きなんだと実感します。
先日、大溪洗耳先生の書を見に行きました。そして、先生が指導している映像を見ました。
数回しか受けたことがない指導でしたが、心にしっかりと残っていて、先生の思考が私の腑に落ちていると思いました。
先生が書く映像を見て、心が震えました。先生と一緒に呼吸して、墨をつけて、筆をおいて書く・・・シンクロしました。
私が心を震わせたのは、完成した先生の書ではなく、書くことでした。
先生の作品は芸術で、素晴らしいです。でも、それ以上に書に対する姿勢と書く姿に感動しました。
私の「書道はきれいな字を書くこと。書は美しいもの。芸術作品だ」という固定概念を払拭しました。
私が書道に求めていたのは、作品としての書ではなく、リラクゼーションとしての書なのです。これからはリラクぜーそんとしての書を始めたいと思います。
思い、悩み、感じ方、考え方は人それぞれです。他人が「コレだ」ということ、大勢が賛同することは、自分と同じでなくて当たり前です。自分の心が向かうもの、本当に望むものを叶えて頂きたいと思います。
私ができる事は、お客様の気持ちと身体の声を聴いて施術すること。お客様とシンクロ出来ると嬉しいです。